INTERVIEW
橿原神宮 宮司 久保田 昌孝氏
「世界が一つの家族のように
仲良く暮らす」
建国の地から発信し続ける
平和の祈り
「古事記」「日本書紀」において第一代神武天皇が即位されたと伝わる地――奈良県橿原市畝傍山(うねびやま)の麓に創建された橿原神宮(かしはらじんぐう)。約16万坪の広大な境内は緑にあふれ、「万葉集」にも歌われた畝傍山の美しい姿を仰ぎ見ることができます。橿原神宮の成り立ちや奈良の奥深い魅力、神社への参拝など久保田宮司にお話を聞きました。
明治維新と神武天皇
国づくりのはじまり、橿原
橿原神宮は明治23年(1890年)、幕府政治から天皇を中心とした新しい国づくりを行う明治維新の流れのなかで創建された神社です。新しい時代を迎えるにあたっては、日本の長い歴史のなかで何を規範とするのか、いろいろと議論が交わされました。南北朝時代か、平安時代か、それとも十七条憲法をつくった聖徳太子の時代か。いや、最初に国づくりをした神武天皇の時代に立ち返るのが一番いいんじゃないか。神武天皇の建国の理念というものを元に日本の国づくりをしようと至ったわけです。
そこで神武天皇はどういった方かと調べますと、九州の日向から大分、福岡、広島、岡山、大阪、そして和歌山をまわって奈良に入り、畝傍山(うねびやま)東南の橿原に宮を築かれ「日本の中心であるこの地で天照大神の御心のままに国づくりをしよう」と日本の国をつくられた方だと。すると、畝傍山に神武天皇をお祀りする神社をつくろうと地元の人たちが声をあげたんですね。その気持ちが明治政府を動かし、明治天皇は京都御所の賢所(かしこどころ)※と神嘉殿(しんかでん)※を神社の本殿、拝殿として使いなさい、名前は橿原神宮としなさいとお決めになられました。明治天皇が非常に篤いお心をお寄せになっておられたことが、このお話からも十分に分かります。
また、明治天皇は時を同じくして、今の道徳教育の根源をなしている教育勅語を出されています(明治23年)。西洋文化も入れつつ日本の発展をめざそうとした明治の急速な近代化に危機感を覚えられ、いいものはいいと海外から取り入れたらよいけれども、昔から伝わってきた日本の素晴らしい文化は守っていかなければならない。日本人としての精神的支柱を大切にし、日本という国の原点に立ち返った国づくりを大事にされたのです。
すべての民族が一つの家族に
八紘をおおいて宇(いえ)と為す
神武天皇は橿原宮を築かれる際、奠都の詔(てんとのみことのり)を出されています。東征を終えられ大和国に入られた時に、周囲を山に囲まれた美しい大和平野をご覧になったのでしょう。その文を読むと「天地四方八方の果てに至るまで、この地上に住むすべての民族が一つの家族のように仲良く暮らせる世のなかをつくりたい」とお述べになっています。それが八紘為宇(はっこういう)――八紘をおおいて宇(いえ)と為す――非常にいい言葉なんです。
その昔、仁徳天皇という方がいらっしゃいましたが、ある日の夕刻、ふと外を見るとどの家の竈(かまど)からも煙があがっていないことに気づきます。これはどういうことかと周囲に聞くと、凶作続きで食べるものが何もないからだと。そこで仁徳天皇は税の徴収を3年間免除し、ご自分の衣食住も民と同じようにしますと、そういったお心で過ごされるんですね。3年後、再び外をみると家々の竈から煙があがり、あぁ豊かな暮らしが戻ったんだなとお喜びになった。そのような優しい気持ちの根本が八紘為宇です。
また、東日本大震災時、皇居は計画停電の対象地域外でしたが、上皇ご夫妻は自主停電に取り組まれ、懐中電灯やろうそくでお過ごしになりました。人々の支えになりたいと異例のビデオメッセージも出されました。歴代の天皇の方々に浸透している八紘為宇の精神を、日本人一人ひとりが見習わないといけないですね。
奈良の奥深い魅力
2680年経った今も、神武天皇が見た景色を体験できる
学生時代は古美術が好きで真夏に汗をしたたらせ飛鳥を歩き回ったり、奈良、京都にはよく行ったものです。橿原神宮には大学の実習で来させていただき、それがまさかこのようなご縁をいただくとは思いもしませんでした。東京を離れて知らない土地での生活にまずは石の上にも3年、我慢できればと思っていましたが気が付けば10年、20年と、どっぷりはまりました。
奈良は歴史が身近に感じられる素晴らしいところです。神武天皇が感銘を受けられた景色を、2680年経った今もそのまま体験することができます。毎朝、ご本殿にお詣りすると畝傍山がすぐ間近に見える。あぁ、神武天皇もこうやって毎日ご覧になっていたんだろうなと思うと感激します。特にこの辺りは飛鳥あり、橿原あり、藤原京ありと実に豊か。藤原京の真ん中に立つと大和三山が見え、持統天皇もこの三山を眺めていたんだな、万葉集の歌はこういった景色から生まれたんだなと臨場感を持って迫ってきます。非常にありがたいですね。
だから残念なのは、日本全国にお住まいの多くの方が奈良というと大仏さん、奈良公園の鹿に法隆寺くらいしか想起できないことです。南に行けば吉野などいい所はたくさんありますし、奈良の奥深さを知っていただければもっと足を運ぶ方は増えると思っています。学生時代のゼミでは「仏像を見たければ奈良に行け。建築物、庭園を見たければ京都に行け」とよく言われていましたが、やはり奈良には独自の魅力があると感じます。
神社へのお詣りとは
真実の心で自分のことを祈り、幸せの輪を広げる
家族の病気を治してほしい、子どもが志望校に合格できるように――人は願いごとがあるときに意識して神社にお詣りします。神様は目に見えないですから自分の強い意志をもって何かにすがるしかない、その対象がいわゆる神だと思います。明治天皇の御製(ぎょせい)に「めにみえぬ神のこころにかよふこそ 人の心のまことなりけれ」という和歌があります。神様の心に通うのは嘘偽りのない真実の心じゃないとだめなんだよ、ということです。だから神社では個人のことではなく公のことを祈るんだという方もいらっしゃいますが、私はそうは思わないんですね。仲良く平和に暮らす家族がたくさん集まって村全体が明るくなり、そうした村々が集い交流することで県が盛り上がる――これが八紘為宇の精神です。
一気に大きな公のことを祈る前に、まずは自分たちが幸せであるように、どうぞお守りくださいと祈る。いいことを思い描くと気持ちが明るくなるでしょう。それが神社の持つ役割の一つでもあると思っています。私自身、道を通るたびに神社があれば手を合わせてまず自分自身のことを祈ります。夕方だったら「今日もありがとうございました」、朝だったら「おはようございます。今日もよろしくお願いします」と、そういった素直な気持ちを伝える場でいいと思っています。
奉職して51年目
次世代へ手渡すために――橿原神宮の杜の再生に着手
振り返ると50年はあっという間で、橿原神宮に来たのもつい先日のように感じます。奉職したての頃には、社殿の屋根を苔むした檜皮葺(ひわだぶき)から銅板に替える葺き替え事業が始まりました。なかでも本殿の御神霊(おみたま)を移す遷座祭は一生に一度奉仕できるかどうかと言われる行事で、緊張して臨んだことを覚えています。平成2年(1990年)にはご創建100年祭があり、神武天皇が崩御されて2600年という節目の年(2016年)には、本殿の葺き替え事業に再び着手。前回経験しているのは私を含めて3名のみで、当時は皆若く橿原神宮に入って間もない頃でしたから古い資料を引っ張り出し、40年以上前の記憶を辿りながら職員の力を借りて無事終えることができました。
現在は紀元2700年に向けた境内特別整備事業の一環として、大阪芸術大学の先生方等とプロジェクトチームを作り、橿原神宮の杜の再生に取り組んでいます。かつて建国奉仕隊の皆さんが約15万本の植栽をしてくださり境内を大きく広げた歴史があります。あれから80余年、今ではカシの木を中心とした緑豊かな境内となっていますが、生態系を活かしたより健全な杜をめざそうと活動をはじめました。
改めて感じるのはとても中身の濃い時間だったということ。橿原神宮の歴史を繋げる様々なご奉仕に携わらせていただくことができたのはとてもありがたいことです。神武天皇がおっしゃった皆が一つの家族のように幸せに暮らせるよう、世界の平和と人々の幸せを祈り続けるのが橿原神宮の使命です。これからも参拝いただく皆さんに少しでも喜んでいただけることができればと思っています。
橿原神宮
奈良県橿原市久米町934
近鉄「橿原神宮前駅」中央口から徒歩約10分
クリエイティブコラボは、コラボレーショの力で新しいサービスや価値を創造していきます。
日本文化を次世代に継承するプロジェクトや、メタバース・NFTを活用した地域活性、アートと教育など、さまざまな企画を進行中。
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