INTERVIEW

株式会社出西窯 陶工 代表取締役 多々納 真

1959年、出西窯の創業者の一人、多々納弘光の長男として生まれる。大学卒業後、出西窯の陶工として陶器づくりに専念。現、代表取締役。出雲民藝協会会長としても、用の美に根づいた民藝の生活文化の継承に取り組む。

10代の青年たちが立ち上げた
工芸共同体。
その志を継承し
100年デザインをめざす(前編)

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出雲の美しい田園風景のなかに佇む出西窯(しゅっさいがま)。郷土の原料を大切にしたぬくもりのある手仕事、実用的で美しい暮らしの道具の数々は、全国にファンが広がっています。民藝運動の創始者である河井寬次郎や柳宗悦、バーナード・リーチ等に指導を仰ぎ、ゆるぎない志で手仕事を続けてきたその原点、継承される思い、取り組みについて代表である多々納真氏にお聞きました。
後編はこちら

美しいものを生みだしたい

5人の青年が、誰も経験したことがないものに挑戦した

出西窯は、戦後まもない昭和22年(1947)8月、島根県出雲市斐川町出西で産声をあげました。焼きものには無縁だった農家の次男・三男、5人の青年が工芸共同体を夢見て立ち上げた窯元です。

創業メンバーである私の父、多々納弘光(1927~2017年)は庄屋の三男として生まれ、旧制中学卒業後は長崎経済専門学校(現・長崎大学経済学部)に進学しました。長崎に原爆が落ちた際は島根に帰省しており、偶然にも被爆はまぬがれましたが、終戦後の日本は焼け野原で働く先もない。かつて田舎では長男が農家を引き継ぎ、次男や三男は県外や近郊で働いていましたが、それもできない。そうした将来の生活計画がたたないなか、17、18歳の青年たちが地元で何か起業できないかと考えるわけです。

そして、今まで教育において芸術や美術といった美しいものはすべて度外視だったけれども、自分たちの手で「美しいもの」を生み出す、自他ともに喜びのある仕事ができないだろうか。そんな切なる希望によって、手仕事である焼きものに辿り着きます。誰も経験したことがないものに10代の青年たちが挑戦しようと思った、これが出西窯の大元なんです。

民藝との出会い

河井寬次郎先生の魂の言葉に、生涯の道が決まった

島根県の試験場で疎開されていた作家さんに、焼きものについてゼロから教えていただきながら、「美しい焼きものってなんだろうか」と考え、家の蔵のなかにある京焼や萩焼をまねて作る。そうしたことを数年続け、田んぼを多少手伝いながら最低の米を食べさせてもらう。父の実家の牛舎を改造して小さな窯を作り、合宿のようにみんなで試行錯誤していました。

ある日、工芸家の金津滋さんが松江から来訪され、1日目は見るだけで何も言われない。翌日再び来られ「あなたたちの仕事には美しさも、志も見えない」と、柳宗悦先生の本を一冊手渡されるんですね。そこではじめて無名の職人が作った日々の生活道具こそ美しいものだとする「民藝」を知ります。父は繰り返し本を読み、自分たちのような才能のない人間が頑張っていくには、民藝の志にそった道具づくりが一番近い道かもしれないと考えました。

しかし、どう進めていけばよいものなのか、悩んだ父は民藝の創始者でもある河井寬次郎先生(1890~1966年)に手紙をお送りします。すると「そうか、そんな思いを持った若者が郷土にもおるんだ」と、京都に呼んで話を聞いてくださった。その後、昭和25年(1950)8月に、河井先生が出西窯に来てくださることになりました。

タクシーでお迎えにあがった道中、河井先生は車中から店先に積まれた黒い火鉢に目をとめられ急停車させるとつかつかっと歩いて、火鉢を抱き上げられました。「なんと美しい、これこそ出雲の宝だ」と喜ばれ、父たちにも購入をすすめたそうです。それは日本海の漁師がイカ釣りの船で使用する釣鐘火鉢と言われるものでした。

左)出雲大津焼 釣鐘火鉢(出雲民藝館提供)

その夜は「角度を変えれば火の加減ができ、雨をしのぐ庇もあり、持ちやすくて倒れない。これぞ民藝の志のすべて。こういう道具として根幹から美しいものをつくらないといけない」と、一晩中語られたといいます。河井先生という巨匠が、釣鐘火鉢を手にして熱い思い、民藝の教えを青年たちに伝えられた。その言葉、姿に全員が感動し、出西窯の生涯の道が決まりました。実用に徹するという一筋の道は、現在まで脈々と続いています。河井先生はまさに魂の人、というふうに僕は感じています。

工房内に掲示された河井寬二郎の「仕事のうた」。
毎朝、全員で唱和し仕事にとりかかる

父の講義

共同体として先代たちの思いを継承していく

父は70歳で一線を退いた後、かつて河井先生からどんなことをお聞きしたのか、若いスタッフに向けた講義を毎月開いてくれました。講義は約2時間、1年間続きました。まるで映画を観ているような面白さがありましたね。他にも技術や思想的な指導を受けた陶芸家の濱田庄司先生など、さまざまなテーマで話してくれ、その内容は出西窯の65周年として本になりました。

今も僕の胸に大きく響くのは、17、18歳の小中学校からの親友5人が集まって、経験もお金も何もないゼロからスタートさせたということです。終戦間もない、今のような国の支援もないなか悩みながらも突き進んでいった。精神的にすごく大人だと思います。昭和20年代と令和の今、時代は大きく変わっても同じ人間です。だからこそ、今の高校生や大学生に夢や起業するということがどういうことか、もっと伝えていくべきだと感じています。

無自性の教え

何もかもおかげさま、自分の手柄はどこにもない

出西窯は、一人ではおそらくできなかったことで、集団だからできた。経営を中心に担うメンバー、釉薬を教わった人間、窯焚きを頑張る人など、それぞれが役割を分担し、さらにそれを共有し蓄積していくということをずっとやってきました。集団の力は無限の力なんだ、ということが75年の歴史を支えていると思っています。

ただ集団だからこそ人と人の摩擦が出てくることもあります。運営に悩んだ際は、哲学者であり僧である山本空外上人(1902~2001年)に教えを乞いました。そのときに空外上人からいただいたのが、『無自性』という仏教の言葉です。何もかもおかげさまで、自分の手柄などどこにもあろうはずがない、自分が、という意識をなくしていけば集団がどれだけ楽しくなるか、ということを説いてくださった。この言葉は出西窯のもう一つの志として常に持ち続けていくよう、父から教わりました。後に石碑を建て、創業50周年の平成10年(1988)には、「くらしの陶・無自性館」と名付けた展示販売場を開館しました。

出西窯の空(くう)ちゃん。
山本空外上人から一字をいただいて命名

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出西窯

島根県出雲市斐川町出西3368
展示販売場「くらしの陶・無自性館」
9:30~18:00
毎週火曜定休(祝日は除く)

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