INTERVIEW
落語家 柳家 花緑 氏
「笑い」は人生を
豊かにする鍵の一つ。
攻めのチャレンジを重ね、落語の文化を守り伝える(前編)
スピード感に満ちた歯切れの良い語り口に定評のある気鋭の落語家、柳家花緑さん。古典・新作落語に加えて、近年はバレエ落語や47都道府県落語など、進取の気性に富んだ取り組みにも注力し、落語に親しむ人々のすそ野を広げています。インタビュー前編では、祖父である五代目柳家小さん師匠との思い出や、花緑さんが考える落語の魅力についてお話を聞きました。
後編はこちら
落語との出会い
落語界でも珍しい3世代の系譜。祖父の教えは「芸は盗め」
9歳で落語を始めるよりも前から、落語はすごく身近にありました。幼い頃から、僕の祖父であり師匠でもある五代目柳家小さんとは一緒に暮らしていて、家にはお弟子さんや落語関係の人たちが頻繁に出入りする環境でした。テレビをつければ、CMや落語番組で祖父を見ない日はないほど。寄席を見る機会も子どもの頃からありました。祖父に「高座の後に外でご飯を食べよう。その前に寄席も見ていきな」と誘われて、浅草演芸ホールの客席で大人に交じって寄席を見てましたね。そんな特殊な環境で育ったわけですが、ならば落語家になるのは自然の成り行きかというと、そうじゃないんです。落語家は世襲制ではありませんから、僕のように祖父も叔父(六代目柳家小さん)も落語家という家系は、落語界でも非常にまれです。
芸名を付けてもらって小中学生のうちから高座に上がり、中学卒業後に正式に祖父の小さんに入門しました。日本の伝統芸能の全般に言えることですが、落語の世界に教科書やマニュアルはなく、師匠から弟子への口伝(くでん)で芸が継承されます。祖父から言われたのは「芸は盗め」ということ。師匠の噺を聴き、自分の目や耳で捉えたものを、正解かどうかは分からなくてもやってみる。それを師匠に見てもらい、2手目を教わる流れが基本です。ただ、当時の師匠はあまりにも忙しいスター落語家で、稽古をつけてもらう時間もほとんどなくて。僕が勝手に覚えたものを、師匠が家にいるわずかな空き時間で見てもらうこともありました。
「学ぶ」の語源が「真似ぶ」であるように、最初は師匠の芸をそっくり真似るところから始まります。そこから稽古を重ね、歳月をかけて自分の芸風をつくり上げていくわけですが、入門して40年近く経つ今もって、確立できたとは思っていません。先輩落語家の言葉を借りるなら、芸というのはザルに水を張るようなもの。満杯になったと思ったそばから、抜けていってしまう。だから高座に出るというのは、日々の告白ですね。「これが今の自分の精いっぱいなんです」と心の中で打ち明けながら毎回出ている気持ちです。僕は真打にさせてもらっている以上、自分の落語に責任を持って興行する立場にあります。その一方で、ずっと終わりのない研鑽の道を今も歩んでいる、というのが正直な実感です。
芸は人なり
演者自身が芸に反映される、落語の面白さと奥深さ
映画にしても小説にしても、先の展開が見えないから面白い、というのがありますよね。落語は少し違っていて、多くの人がストーリーはもちろん、オチまで知って聴いている不思議な芸能なんです。どこで笑わせるのかも知った上で、演者の工夫を見に来るんですね。
落語はいわば1人演劇で、いろんな声色で役を演じ分ける話芸自体の面白さがあります。加えて、演じるその人自身の人間性が芸に表れやすく、祖父はこれを「芸は人なり」と表現していました。あとあと気づいたのですが、僕の趣味であるピアノも「音は人なり」ですし、過去にテレビ番組で生徒役として嗜んだお習字でも「書は人なり」でした。知らず知らずその人自身がにじみ出るのは、芸事に限らず、あらゆる仕事にも通じることかもしれませんね。なかでも落語は、その最たるものではないかと思います。
だから落語家として高座に上がることは、芸を見せると同時に、自分という人間を見せることでもあります。僕が「ここを聴いてほしい」と思っているところよりも、むしろ無意識に喋った言葉や、無意識にとった態度をお客さんはキャッチされるんです。そうした意図しない部分にこそ人間性は出るもので、それが良い評価につながったり、あるいは反対に悪い印象を持たれてしまったりもする。身ひとつで舞台に上がる落語ならではの面白さであり、演者としては実に恐ろしいところでもあるのです。
攻めることで守る
バレエの名作を題材にした創作落語は、回を重ね4作目
落語は「江戸を語る伝統芸能」と思われがちですが、もとは伝統芸能ではないことをご存じでしょうか。江戸時代に落語が出てきたときは、その当時のこと、つまり「今」を語る新作でした。物語にオチという概念を最初につけたのが落語で、それまでの物語と区別するために「オチを語る=落語」と呼ばれるように。現代のお笑いと同じで、刹那的に消えていく笑いだったんです。それが時代を経て芸が継承されるうちに、祖父のように人間国宝になる落語家も出てきて、伝統芸能といわれるようになりました。もともとは、今の世の中にアンテナを張り、そこでキャッチした面白いことをすぐに喋る。つまり新作をやるのが本来の落語のスピリットなんです。
僕の好きな言葉に「芸術は守るものではなく攻めるものだ」というのがあって、これはフランスのバレエ振付家の巨匠、故モーリス・ベジャールさんが残した名言ですが、芸の道にも当てはまると感じています。これまで通りのことを継続して、今あるものを守っているつもりでも、実際は現状維持にもなっておらず、気づかぬうちに下り坂をどんどん下っている、ということは往々に起こります。年齢とともに体力や気力はどうしたって衰えていくわけですから。落語の場合、「枯れる」という言葉は「芸が成熟する」という肯定的な意味でも使われますが、祖父いわく「本当に枯れていくんだよ」と。努力や精進によって下り坂をなるべく緩やかにすることが大事だと、よく話していました。
現状維持を図るよりも、新しいことに果敢にチャレンジしていく。そうした攻めの姿勢が、芸術や文化の発展や、未来への継承につながると僕は捉えています。失敗を恐れずに攻め続けるプレイヤーでありたい。そんな思いから近年力を入れている一つが、バレエの名作ストーリーを江戸落語に落とし込む「バレエ落語」の試みです。「ジゼル」「白鳥の湖」「くるみ割り人形」に続いて、現在は4作目となる「眠れる森の美女」を題材にした新作落語づくりを進めているところです。これはもう、前例のないまったくの新しい試みですから、僕の今の知識や人生観、想いといったものと、落語で培った技術とを総動員して創作していこうという挑戦ですね。並行して、古典落語を磨くことにも注力していて、「花緑のタネ!」と題したネタ下ろし演目だけを披露する会を2022年から継続しています。
話芸を磨く
喋ることは習い事。失敗を重ねた先に上達がある
職業柄、「どうすればうまく喋れますか」「会話が上手になれますか」と相談されることがあります。一つお伝えできるとすれば「喋ることを習い事だと思ってください」ということ。喋ることは日常的な行為なので、なんとなく「できて当たり前」と思いがちですが、これがピアノ演奏ならどうでしょう。いきなりベートーヴェンを弾こうとは思いませんよね。バイエルから順にステップアップしていくはずです。喋ることも同じで、目標を少しずつ上げながら、とにかく繰り返し場数を踏むこと。相手を疲れさせたり、眠くさせたり、たくさん失敗して、恥もかいて、試行錯誤した末にやっと人に伝わる会話ができるようになるんです。
「受けるギャグはありますか」と聞かれることもありますね。いやいや、大事なのはギャグじゃなくて、どう伝えるかなんです。どんなに面白い噺も、伝え方ひとつで面白くなくなってしまう。それを僕は前座時代に痛感させられました。師匠が演じれば大爆笑の渦になる落語を僕が覚えてやってみても、まるで魔法が解けちゃったみたいにまったく受けない。そんな経験も実際にありました。
落語家に求められる基本技術はさまざまで、口は回っているか、声は出ているか、声色や仕草で登場人物になりきれているか、など研鑽に終わりはありません。しかし一方で、技術だけが先走ると、鼻につく芸になってしまい、観ているお客さんは良い心持ちになれないんですね。技術だけでも、想いだけでもだめで、そのバランスたるや大変に難しい。「喋れて当たり前」では決してないのだと、話すことを生業にしてみるとよく分かります。
<INFORMATION>
柳家花緑独演会『花緑ごのみvol.42』
【日時】
2024年10月19日(土)
12:00開演 / 16:30開演
【会場】
イイノホール(東京・千代田区)
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