INTERVIEW

宮本工藝 仏師 宮本 我休

1981年、京都市生まれ。高校卒業後、短大・専門学校で5年間服飾を学び、ファッションイラストレーターとして活動した後、仏像彫刻の世界に入る。9年間の修行を経て、2015年独立。京都・西山に仏像彫刻・修復を行う「宮本工藝」を設立。趣味はカメラ、山登り。

歴史のなかの点となり
仏像彫刻を後世に
受け継いでいく。
1000年続く至高の
仏像をめざして――(前編)

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25歳で仏師という仕事に出会い、人生の歯車が回り出したという宮本我休(がきゅう)さん。京都に工房を構え、京都・下鴨神社の獅子狛像づくりや知多半島の古寺、野間大坊(のまだいぼう)の毘沙門天像修復など、仏像の新彫や修復を多数手がけられています。前編では、仏像づくりの世界へ飛び込んだきっかけや、寝食を忘れるほど励んだ修行から独立までの日々についてお話を聞きしました。
後編はこちら

ものづくりに夢中だった子ども時代

横文字の仕事に憧れファッションの世界へ

幼少の頃から絵を描いたり工作をしたり、ちまちまとした細かい作業がすごく好きで、将来はものづくりに携わる仕事がしたいと思っていました。なんとなく職人気質だなという自覚はあったものの、多感な中学時代になると縦文字の職人より、横文字のクリエイティブな仕事に強い憧れが出てきたんですね。おしゃれも大好きでしたから、中学の卒業文集に書いた将来の夢は「ファッションデザイナー」でした。

高校卒業後は芸術短期大学で2年間、さらに東京の専門学校で3年間、服飾を学びました。服づくりは人体に着せたときの動きやすさなど、デザインを考える上で制約があります。そこに窮屈さを感じるようになり、もっと表現の幅を広げたいとファンションのスタイル画にのめりこむうち、ファッションイラストレーターとして活動を始め、雑誌の挿絵を描く仕事をいただいたり、気がつけば学業と2足のわらじに。専門学校卒業後は京都に拠点を移し、さらに自由な表現を求めて抽象画を描くようになったんですね。点描画のような小さな点をひたすらキャンパスに埋めていく、今振り返ると自分でもよく描いたなと思うほどです。

人生の歯車が回り出した瞬間

スケールの違いに打ちのめされた、仏師という仕事

アルバイトをしながら作品制作に明け暮れていたときです。「友人の仏師が、十一面観音菩薩像の服に柄を入れる職人を探しているから一回行ってみないか」と、兄が声をかけてくれました。向かった先は、代々続く仏師の工房。そこでものすごい衝撃を受けるんですね。ファッションは流行とともに淘汰されていく、サイクルの早いものづくり。かたや仏像は1000年後、2000年後を考えたとても長いスパンのものづくり。自分が存在していない時代を見据え、いかに恥のない仕事ができるかという仏師の方の心構えに清々しさを感じ、スケールの違いに打ちのめされた。その日のうちに思いは固まり「弟子にしてください」とお願いしました。

当時、僕が住居兼アトリエとしていたのは、風呂なし炊事場共同、6畳一間のぼろぼろアパート。公募展に絵を出しては落ちを繰り返すなか、「なぜ認めてもらえないのか」ともがき苦しみ迷いのなかにいました。そんなとき仏像彫刻という世界に触れて、歯車がいきなり回りだしたんです。本当に、ガシャンと音が聞こえるくらい。今までいろいろなことにベクトルを持ち右往左往していたのが、一本の線にパンとなった。その感覚は今でもはっきりと覚えています。

服づくりを通して学んできた人体構造の知識はそのまま仏像にもあてはまりますし、布ドレープの扱いは仏像の衣紋表現に役立ちます。今までやってきたことがむしろ自分の強みになると感じられたことも大きかったですね。ファッションの世界から仏師となったのは、おそらく僕が最初で最後になるのではないでしょうか。

25歳で弟子入り

もっと彫りたい、役に立ちたいという思いが原動力に

弟子入りしたのは25歳。しかもゼロからの遅すぎるスタートでしたが、師匠が一番弟子をとろうかというタイミングで出会えたことはとてもありがたいことでした。見て盗めという職人の世界にあって、25歳という年齢をくんでくださり、最短の近道を教えるからと親身になってくださいました。師匠はご兄弟で工房を営まれていて、お兄さんが仏像をつくる京仏師、弟さんが位牌を専門につくる京位牌師。同時に二つの工房に入ったような環境で修行を積んでいきました。いまでも覚えているのが、お位牌の基礎彫刻で師匠がテーブルの向かいからちょちょっと彫ったものを渡してくださり、僕が見よう見まねで彫らしてもらい師匠にお返しする。それを手直ししてくださり、また僕が彫ってというキャッチボールをつきっきりでやってくださったことです。

師匠からは「人の倍では無理だから、3・4倍やってようやく人並みじゃないか」と言われていましたが、僕自身は仏像を彫ることが何より楽しく、寝食を忘れるほど没頭しました。友達の誘いも断り、正月休みでさえ工房にこもって自分の制作にあてる。毎年、清水寺の除夜の鐘を聞きながら彫っていましたね。時間が本当に惜しくて「もっと彫りたかった。来年はもっともっと彫ってやろう」そんな気持ちでした。

もう一つの原動力は、一刻も早く戦力になりたいという気持ちです。何もできない教えていただく立場でありながらお給与をいただいていることに、すごく罪悪感があったんです。申し訳ないという一心で仕事が終わったら木端をもらい、家に帰って仏像の手や顔を彫ったり、やれることを少しずつ増やしていく。とにかく師匠に「ようできたな」と言ってもらいたい、役に立ちたいという思いが原動力になっていました。

師匠のもとで9年間の修行を積み独立したのは34歳のときです。たくさんのことを学ばせていただくなかで、ああしたい、こうしたいが出てきて、自分の作風で勝負したいと意を決しました。独立後は「宮本我休(がきゅう)」と名乗りました。師匠から「我が強いことが君の弱点や」とずっと言われていて、名前を呼ばれるたびに我を休せるように、自分を戒められるようにという思いを込めています。

独立後の仕事

燃え残った木材からつくった、忘れられない仏像一作目

独立したものの仕事はいっさいありませんでした。父親からもらった達磨大師(だるまたいし)の掛け軸を飾り、日がな一日ぼおっと見る、そんな日々でした。あるとき自分から動かないとダメだと思い、ひらめいたのがダルマさんを自分なりにアレンジしてみようという試みです。誰もが知っているダルマさんの頭の上に、植物や生き物などいろんなモチーフを乗せたものです。知り合いを通じて大手百貨店の展示会に参加させていただくことができましたが、僕以外は人気作家の方ばかり。時間をもてあました僕はひたすら店頭に立ち「ダルマさんとは」 「仏教とは」をしゃべり続けました。それを見た百貨店の方が「あいつ誰や」と面白がってくださり、別の展示機会をいただくなど仕事が少しずつ広がっていきました。

はじめて制作した仏像も忘れられません。家を焼失された檀家さんを励ましたいというお寺のご住職からのご依頼で、燃え残った木材から仏像をつくってほしいという内容でした。全身泥だらけになって使える木材を探すなか、廃材の下からケヤキの大黒柱が出てきたときは驚きました。周囲は炭で焦げているものの、内側はみずみずしいまま。このケヤキを使って仏像をお納めしたときは、檀家さんに本当に喜んでいただき、仏師としての心構えを学ばせていただいたとても幸運な一作目となりました。

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仏像・位牌・修復・木彫刻

宮本工藝

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