INTERVIEW

河井寬次郎記念館 学芸員 鷺 珠江

1957年、河井博次・須也子の三女として京都市に生まれる。同志社大学文学部卒。河井寬次郎記念館の学芸員として、祖父・河井寬次郎にかかわる展覧会の企画・監修や出版、講演会、資料保存などに従事。

自分とは何か――表現者 河井寬次郎が見つめていた世界、その生き方(前編)

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陶器、書、木彫、デザイン、民藝運動…陶工という概念を超え、あらゆるものに美を見出し、いのちの喜びをさまざまに表現しつづけた河井寬次郎(1890~1966年)。その作品、あり方は今なお多くの人を惹きつけてやみません。寬次郎の孫であり、河井寬次郎記念館で学芸員をつとめる鷺珠江氏に、寬次郎のめざしていたものや残した言葉についてお聞きしました。
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16歳で誓った「日本一の陶工になる」

安来のあたたかい風土が
育んだ心

明治32年(1890)、寬次郎は大工棟梁の次男として島根県安来に生まれました。子どもの頃から利発で活発、将来は政治家か外交官になるようなイメージだったと聞いています。それが、中学2年のとき、叔父から「陶器をやったらどうだ」と言われて即決。島根はもともと窯元が多くある土地柄で、寬次郎も近所の窯場で仕事をよく見ていました。硯に使う水をいれておく水滴の小さな穴に、一生懸命に針金を通してジャラジャラと首飾りのようなものをつくったり、川の石ころをとても興味深く見ていたりと、手先が器用で感受性の豊かな子どもでした。

寬次郎は4歳のときに生母を亡くしていますが、母方の叔父や継母など周囲からとても大事にしてもらっていて、切ない哀しみも知りながらも、愛情をふんだんに受けています。そうした安来のあたたかい風土のようなものも寬次郎の心を育てていったのではないかと思います。

昭和10年(1935年) 河井寬次郎氏

修学旅行で訪れた厳島神社で「日本一の陶工になる」と誓ったのが16歳。松江中学卒業後は、東京高等工業学校窯業科(現・東京工業大学)で科学的基礎を学び、京都市立陶器試験場にて釉薬の研究に打ち込みます。30歳で清水焼の名家である清水六兵衞さんから登り窯を買い求め、「鐘溪窯(しょうけいよう)」と名付け、工房と住居を構えました。その翌年、以前からつくりためた作品で個展デビューします。

陶芸界に彗星が現れた

評価された作風を手放し、
大転換

寬次郎の作風は、大きく初期・中期・後期に分けられます。初期は華麗で繊細な中国古陶磁のスタイルで、個展デビュー後は「陶芸界に彗星が現れた」と絶賛され大変な人気を博します。しかし、本人はもやもやを感じはじめます。手本としているのは遠き日の名もない職人の素晴らしい仕事であり、本当の仕事は名前や己を超えたところにあるのではないかと。

そういう時、おもしろいことに出会いがあるんですね。思想家の柳宗悦さんや柳さんを通じて知る木喰仏(もくじきぶつ)、後輩の陶芸家、濱田庄司さんがイギリスより持ち帰った雑器スリップ・ウェア…。当初、柳さんは寬次郎のスタイルに批判的で、二人はあまりいい関係ではありませんでしたが、関東大震災を機に柳さんが京都に疎開、その美しい仮住まいに濱田さんが寬次郎を引っ張っていったんです。そこで見た木喰仏に寬次郎は魅了され、一瞬にして二人の仲は氷塊し、生涯の友になります。寬次郎と柳さん、濱田さん。この3人が出会った京都が民藝のスタート場所となり、民藝運動へとつながっていきました。

清水寺からほど近い住宅街にひっそりと佇む記念館。
当時のままの姿で、訪れる人をあたたかく迎えてくれる

デビュー当時の「高島屋美術畫報」にも本人が書いていますが、もともと寬次郎は、無銘の中国古陶磁のなかにまだ拙い自分の作品を紛れ込ませていただいています、という区別の意味で銘を入れていました。河井寬次郎がつくったんだよ、という意味ではないんです。そのような状況のときに柳さんと出会い、思想がピタッと重なった。その後、納得のいく作風を求めて3年間の沈黙期間を持ちます。昭和4年(1929)に個展を再開したときには、技巧性を排除した暮らしのなかの素朴な器が中心となり、そこから銘は消えていました。

沈黙期間には、民藝(民衆的工藝の略)という言葉を3人で生みだし、民藝美術館設立趣意書をつくったり、新たな作陶に専念していました。この作風が大きく転換し民藝運動と連動するのが昭和初めから戦中にかけてで、寬次郎の中期にあたります。そのさなか、47歳で旧宅を建て替えたのが、現在の記念館です。飛騨高山や朝鮮の農家の持つ建築美を取り入れて寬次郎自らが設計し、安来から大工棟梁の兄と職人を呼びよせて建築しました。こうして寬次郎は美の拠点を得ることになります。

55歳で終戦を迎えた後は、民藝の枠からも飛び出て、どんどん自由になり、実用にとらわれない自分が作りたいものを突き詰めていきます。木彫は60歳からの10年間で、100点近い作品を陶器と並行して生みだしました。窯が焚けない時期もあった戦中から精神世界はさらに深まり、文章や言葉もあふれるように創作し、76歳でその生涯を閉じます。

民藝のくくりで語られることの多い寬次郎ですが、特に晩年は民藝の作家というのとも少し違う。本業はやはり陶工だと思いますが、最終的には表現者というのが正しいかもしれません。大学院で教鞭をとる私の知人は、「レオナルド・ダヴィンチみたいだね」と言っています。

寬次郎と家族

文学性と、
自由であることへの尊重

寬次郎はとにかく忙しい人でした。作陶も忙しいですし、千客万来の家で、24時間暮らしと仕事が切り離せない。まさに「暮しが仕事 仕事が暮し」でした。柳さんは、「京都に行ったら河井の所へ行ってみては」と名刺を渡されますし、また海外からの来客も多く、私設大使のような役割も担っていた気がします。お客さまとの時間も楽しみ、そこからたくさん吸収し、自分も語る。お食事も頻ぱんにお客さまととりますし、それを祖母を中心とした女性陣が支えていました。

残念ながら私が9歳のときに寬次郎は亡くなりますが、持っているエピソードが1つだけあります。寬次郎はちょっとした時間の隙間に、私を呼んで言葉をかけてくれました。言葉は2種類あって、必ずどちらか。「今日は柿の種だね」だと、〇をもらったような気持ちになり、「今日はメロンの種だね」だと△のようで、頑張ろうと思っていました。

柿の種は大きくて存在感があり、包丁を入れてもいったん止まるほど硬くて生命の塊のような感じです。ですから元気があるときは柿の種。一方、私が元気のないときは、白くて中身のないペタっとした感じのメロンの種。おそらく寬次郎なりに励ましてくれていたと思うのですが、メロンの種と言った後に、「頑張りなさい」「元気を出しなさい」などは言われていなかったなと、時間がたってから気づきました。

寬次郎の一人娘である私の母からは、娘たちを公立の学校か私立に行かせるかで悩んでいたとき、「ジャガイモやタマネギを押し入れにいれておいても、芽を出すぞ」と寬次郎から言われたと聞きました。こうしたエピソードから感じたのは、寬次郎の持つ文学性、そして自由であることへの尊重です。たとえ家族であってもこうしろ、あれをするなというのはまったくありませんでした。そのことは純粋にうれしいなと思っています。

「自分とは何か」という命題

見つめていたのは
自他合一の世界

やはり神々の国、出雲の人なので、寬次郎のなかで神と仏は一本の縄のようになわれていて、お寺に行くと合掌し、神社では柏手を打ち、太陽やお月様、遠くでお仕事をしている農夫の方にも手を合わせて感謝する。宗教的情緒がとても深く、柳さんは「人は河井の家に行くと清められて帰ってくる」と言われていました。こう表現すると聖人君子のような感じですが、いたって人間的で、感情豊かで、よく泣く人でした。感激しては泣き、素晴らしい仕事を見ては泣いていました。ここまでつくるのにどのような日々を過ごしてきたのか、どんな美しい気持ちで挑んでいったのか、その仕事の向こう側に見えるものに感じ入っていたのだと思います。

寬次郎自身、質量ともに膨大な作品を生みだし、多くのものを見て、手に入れて仕事の糧にし、散々ものと向き合いますが、最終的にはものの要らない人でした。何も持たずに生まれて、何も持たずに死んでいくということを一番よくわかっている人でしたので、ものへの執着がない。有名欲も一切なく、人間国宝や文化勲章も辞退しています。

ですから自分の作品に対しても、苦労して手に入れた技法を手放せる。聞かれたら誰にでもオープンにする。そのおかげで、次への興味に向かえたのでしょう。自分で自分を縛らない。そういう資質がさまざまな表現へと結びついたのだと思います。

寬次郎は、生涯を通じて「自分とは何か」という命題に向き合っていたように思います。
「新しい自分が見たいのだ――仕事する」
「此世は自分を探しに来たところ 此世は自分を見に来たところ」
という言葉にも表現されていますが、それは自分の個性だけを出すぞということではなく、見つめていたのは自他合一の世界。自分と他人の区別のない世界です。また陶器づくりは釉薬の研究や成型など人事を尽くしますが、最後には窯に託します。火や土といった自然が相手の他力の仕事です。自他合一には、人間世界の自分と他人の合一という意味もありますが、自力と他力、その接点の仕事をしていた寬次郎には、大いなる力と自分というものが一つになる――そんな世界をめざしていたのだと思います。

祖父・河井寬次郎について、
家族の目線でも語ってくださった鷺さん

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河井寬次郎記念館

京都市東山区五条坂鐘鋳町569
10:00~17:00(入館受付16:30まで)
月曜休館 (祝日は開館、翌日休/夏期・冬期休館あり)

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