INTERVIEW

河井寛次郎記念館 学芸員 鷺 珠江

1957年、河井博次・須也子の三女として京都市に生まれる。同志社大学文学部卒。河井寬次郎記念館の学芸員として、祖父・河井寬次郎にかかわる展覧会の企画・監修や出版、講演会、資料保存などに従事。

自分とは何か――表現者 河井寛次郎が見つめていた世界、その生き方(後編)

陶器、書、木彫、デザイン、民藝運動…陶工という概念を超え、あらゆるものに美を見出し、いのちの喜びをさまざまに表現しつづけた河井寛次郎(1890~1966年)。その作品、あり方は今なお多くの人を惹きつけてやみません。寛次郎の孫であり、河井寛次郎記念館で学芸員をつとめる鷺珠江氏に、寛次郎のめざしていたものや残した言葉についてお聞きしました。
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誠実 簡素 健全 自由

自由のままで、いのちを尽くす

戦後、私の母が少なくなってしまったスプーンやフォークを買いそろえようとしたとき、寛次郎に「なにを基準にしてものを買ったらよいか」と尋ねました。「それはいい質問だ」と言ってすぐに返事をせずに、数日たってから答えるんですね。結構考えたのだと思います。母に伝えたのは「誠実 簡素 健全 自由」という4つの言葉。これらが満たされていればまず大丈夫という返事だったといいます。

こんな話もあります。米国のGHQの方が家に来られたとき、寛次郎がつくった新作の硯を灰皿だと勘違いされ、吸い殻を入れてしまわれたことがありました。寛次郎はその時平然として何も言わず、私の母が彼らが帰られた後にそのことに触れると、「アメリカの人には墨の文化はないのだから、灰皿で使われようがいいじゃないか」といったといいます。
寛次郎は自分も自由につくらせてもらっているのだから、使う人も自由であってほしいと願う人でした。自由のままでありながら、いのちを尽くそうと、といったあり方は一貫していました。

美しい仕事 正しい仕事

そこここに存在している美

「美の正体 ありとあらゆる物と事の中から見付け出した喜」という言葉にもあるように、喜びと美は寛次郎のなかで強く結びついています。おそらく、哀しみから絞り出すように生まれてきた芸術も認めながら、寬次郎は生き方もふくめ、喜びの方で表現したかった人なのだと思います。

美しい仕事、正しい仕事というのは、美しい暮らし、正しい暮らしから生まれてくるものだという意味のことを寬次郎は言っていました。美だけが単独で存在するものではなく、生き方や暮らしぶりと密接に関わっているということです。日の出とともに起きて日の入りまで仕事をし、素晴らしい農作物を生む農家の人たちのすっきりとした暮らし、私たちの多くはそこに美など関係ないと思いがちですが、寛次郎はそこにものすごく美を感じていたのだと思います。私たちが美術として認識する美というような単純なものではなく、いろいろなところに存在している美、というとらえ方です。

マイナスをプラスに転じる

人間は自然の大いなる力に生かされている

学芸員として作家の寛次郎に関わる時間のほうが長くなりましたが、私にとっては祖父の部分もあります。つらいことがあっても寛次郎の「助からないと思っても助かってゐる」という言葉を思い出して、何とかなると思える。いつも生きていて幸せだと思えるのは、多分、祖父のそういう感覚のおかげかもしれません。

寬次郎の娘である私の母も、思い悩むなということをよく言ってくれました。勉強しなさいとは言われなかったですし、その代わり「早よ来よし」と呼ばれて行くと、夕陽を見せられる。「ちょっと、これ見よし。きれいやろう? 今しかないし、今見とかなあかん」と。その母が残してくれた言葉に「一寸先は闇でも二寸先は光よ」というのがあり、私はすごく感動したことがあります。さすが寛次郎の子どもだな、いいことを言うと思いました。母には母の個性があり、人気者でしたね。本人は「寛次郎の一番の失敗作や」と言っていましたが、私は最高傑作だと思っています。

記念館の住人、えきちゃん。
「没後50年 河井寛次郎展」の開催時にふらりと
やってきたことから、会場の美術館「えき」KYOTOから命名

寛次郎の書いたものを読んでいると、なんとなく顔が上向きになり、引き込まれてしまいます。そして気づきます。あ、この人の本業は陶器だったと‥‥。私の母は、寛次郎のことを「良い意味での放火魔やわ」と言っていました。人の心に火つけるという意味ですね。全く同感です。寬次郎は自分の考えをはっきりと持っていましたが、最終的には自分のなかで消化し、マイナスな事柄もプラスに転じる人で、その切り替えは早かったと思います。その根底には、自然の大いなる力に人間は生かされているという感覚、いのちのありがたさ、だから力を出しきるんだという思いがあったと感じています。

仕事が仕事をしてゐます

こうしてやろう、ああしてやろうといったところから離れ、仕事をしていることすら忘れる、自分の意識もなくなるくらいに仕事と一体化する。仕事なのか自分なのか区別がつかないような世界をめざしていたのだと思います。寛次郎の生き方、精神は、民藝の根本精神を一番表していたと思います。

仕事が仕事をしてゐます
仕事は毎日元気です
出来ない事のない仕事
どんな事でも仕事はします
いやな事でも進んでします
進む事しか知らない仕事
びっくりする程力出す
知らない事のない仕事
きけば何でも教へます
たのめば何でもはたします
仕事の一番すきなのは
くるしむ事がすきなのだ
苦しい事は仕事にまかせ
さあさ吾等はたのしみましょう

心刀彫身

心の刀で身を彫る。寛次郎の晩年の言葉ですが、自分をつくるのは他人ではなく、自分自身の持つ心の刀でつくる。人は自分に出会うために生まれ、自分自身を生きるのだと思います。

眼聴耳視

ピアニストの辻井伸行さんの存在を知ったときに、寛次郎のこの言葉を思いました。禅にも通じると思いますが、見えている私でもちゃんと見ていないことが多く、聞こえているはずなのに右から左で聞いていないということは多々あります。一方、見えない、聞こえないという肉体的制限さえ飛び越えるような力、素晴らしい力が人間にはある――心の目で見てこそ、心の耳で聞いてこそ、真に見える、聞こえるということなのだと思います。

井蛙知天

「井の中の蛙 大海を知らず」はよく聞かれると思いますが、それを寛次郎は「井の中の蛙天を知る」と言い換えました。この言葉は、一つのことに打ち込む職人さんや研究者に向けているのだろうなと思っています。それしか知らない世間知らずということではなく、そのことに打ち込んで誰よりもよく知っているあなたはなんと素晴らしいんだ、という励ましの言葉になっていると感じます。

此世このまま大調和

戦争が終わりに近づいたころ、寛次郎はある日散歩をして、ことごとく葉っぱが虫に食べられた大木を目にし、はっと気づきます。食べたほうが戦勝国であったり、丸坊主になった葉が日本のように感じたと思うのですが、それでいいんだと。虫は葉っぱに養われ、葉っぱは虫を養っている。蝶が飛ぶ、葉っぱが飛ぶ。「此世このまま大調和」‥‥これで調和しているのだという表現です。

作品を見ていると、以前思った何かが、時間をおいて見ると変わっているということがあります。それはお客さまも同じで「10年前に来たのですが、まったく違う印象を受けました」といった声をいただくことがあります。やはりその方にはその方の歴史があるので、その時々で自由に感じてくださるのは、とてもうれしいことです。

寛次郎がこの世を去り長い年月が経ちますが、亡くなっているのに亡くなっていない、本人はいないのに、こうして人々の中でいまも大切にされていることが本当に不思議に思えます。身近に生まれた者として、日々感じる幸せをどのようにご恩返しできるだろうかと、いつも考えています。
私個人として一つだけ思うことは、たとえば20代のまっさらな状態でここに来てみたら、何を思い、どんなことに反応しただろうかということです。まったく関係のない場所で生まれ育ち、初めてこの記念館を訪れ、この景色を目にする。はたしてどんな気持ちになったのか‥‥。ないものねだりですが、それだけ少し味わってみたかったですね。

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河井寛次郎記念館

京都市東山区五条坂鐘鋳町569
10:00~17:00(入館受付16:30まで)
月曜休館 (祝日は開館、翌日休/夏期・冬期休館あり)