INTERVIEW

日本民藝館常務理事
杉山 享司

1957年静岡県生まれ。早稲田大学を卒業後、日本民藝館の学芸員となり、2008年からは学芸部長を務める。現在は日本民藝館 常務理事や日本民藝協会の理事として活動。専門は、民藝運動を中心とする近代工芸史、博物館学。著書に「もっと知りたい 柳宗悦と民藝運動」(東京美術)などがある。

美とは何か、本当に
大切なものは何か。
柳宗悦の旅が、
教えてくれること(前編)

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柳宗悦(1889-1961)らが100年前に提唱し、始まった民藝運動。民藝とは、民衆的工藝を指す言葉ですが、柳らの活動は、そうした工藝品を紹介することにとどまりませんでした。職人たちの手仕事に柳が見出した「美」とは。民藝運動を通して伝えたかったこととは――。民藝や柳を長年にわたり研究してきた杉山享司氏に、柳宗悦の住まいだった日本民藝館西館でお話を聞きました。

「民藝」100年

民藝運動の父、柳宗悦。その際だつ発想力と行動力

思想家の柳宗悦(やなぎ・むねよし)が、「民藝」という新しい美の概念の普及をめざして、仲間たちと進めた民藝運動。その拠点として、1936(昭和11)年に東京・駒場に開設されたのが日本民藝館です。民藝品を紹介し、保存するための美術館であるこの日本民藝館で、私は長く学芸員を務めてきました。現在も、より多くの方に民藝を知っていただくための活動に携わっています。柳宗悦は私にとって研究対象でもありますが、敬愛を込めて柳さんとここでは呼ぶことにしましょう。

柳さんたちが、民衆の暮らしの中から生まれた美の世界に魅了されて、その価値を人々に紹介しようと「民藝」という言葉をつくったのは1925(大正14)年のこと。翌1926年には、のちの日本民藝館につながる出発点ともいえる「日本民藝美術館」の設立趣意書を発表します。今からちょうど100年前ですね。今年2026年は、日本民藝館ができて90周年であり、日本民藝館をつくるための活動がスタートして100年の節目。それを記念した特別展を1年かけて開催する予定です。

本館向かいにある西館は、かつて柳宗悦の生活の拠点だった。
1935年竣工。2階にある書斎は柳が多くの時間を過ごした場所だ

民藝というと、ものの美しさを説く美学や、美術史のくくりで捉える方も多いかもしれません。確かにそうした面もありますが、柳さんが説こうとした民藝は決してそれだけではありません。柳さんの関心は、単なる「美」の問題を超えて、暮らしや社会のあり方、人間の生き方をも問うものでした。この世の中で変えてはならない大事なものは何なのか、それを民藝という言葉でともに考えていこうよ、と柳さんは提唱したのだと私は捉えています。

民間から始まった運動が100年も受け継がれていることは、改めて考えると異例なことです。そこには、柳さんの類まれなる発想力と行動力、そして戦略的なプロデュース能力がありました。民藝について知れば知るほどに、柳さんが成し遂げてきたものの大きさに圧倒されます。

人に出会い、ものに出会う

点が線につながる、柳をめぐる豊かな人間関係

柳さんの生涯をたどると、人との出会い、ものとの出会いに恵まれた人生だったと実感します。柳さんが日常品の美に着目したのは、朝鮮陶磁器の美しさに魅了されたことがきっかけでした。そして実は、そこに至るまでにも、多くの人やものとのかけがえのない出会いがあったのです。その起点といえるのが、イギリス人の陶芸家バーナード・リーチとの交流でしょう。柳さんをめぐる人間関係が点から線へとつながり、豊かに広がっていく、そのキーパーソンとしてリーチの存在は大きかったと思います。

1889(明治22)年に東京・麻布に生まれた柳さんは、学習院高等学科から東京帝国大学に進み、哲学を学びます。学習院の先輩である志賀直哉や武者小路実篤に誘われて、学生時代から文芸雑誌『白樺』に参加し、この活動を通してリーチと知り合いました。リーチはもともと香港で生まれて幼少期を日本で過ごし、母国イギリスで成長していくなかでも東洋への憧れを持ち続けた人物です。当時、西洋から日本に来る外国人の多くが「西洋の優れた文化を東洋人に教えてやろう」という姿勢だったのとは対照的に、リーチは憧れを持って、懐かしい日本に再び来たわけです。一方の柳さんは、学習院で教わった日本人英語教師がキリスト教信者だったこともあり、西洋へのまなざしやキリスト教神学への関心を深めていました。そんな柳さんにとってリーチの存在は、西洋へと大きく開かれた窓のようであったことでしょう。対等な立場で互いの文化への理解を深めていけたことは、幸せなことだったと思います。

1913年、書斎の柳宗悦。
机に置かれているのはロダン彫刻(日本民藝館提供)

『白樺』が創刊された1910(明治43)年に、柳さんたちは、彫刻家オーギュスト・ロダンの生誕70年の特集を誌面で組もうと考えます。『考える人』などで知られるあのロダンですね。メンバーの1人の有島生馬が堪能なフランス語でロダンに手紙を書いて直接やり取りをし、さらに、仲間でお金を出しあって浮世絵の作品30枚ほどを購入しロダンに送ります。その返礼としてロダンは、3点の彫刻を日本に送ってくるのです。当時すでに世界的に高名だった彫刻家本人から作品が送られて、柳さんたちの喜びや興奮はどれほどだったでしょう。柳さんはそのとき21歳。ほかの白樺の面々も20代の若さですから、行動力に驚かされます。貴重な彫刻作品を自分たちだけのものにしては申し訳ないと、彼らは本格的な西洋美術館をつくるための活動を始めます。その後の関東大震災などもあり、残念ながら実現には至らなかったのですが、雑誌『白樺』を通じて賛同者から出資を募るなど、民間の力で美術館をつくろうとした彼らの活動は時代を先取りするものでした。そして、柳さんにとって転機となる朝鮮陶磁器との出会いは、この「ロダンの彫刻」があったことで、もたらされたのです。

「西洋の美術」から「東洋の工芸」へ

無名の職人による実用の器に、美を見出す

ロダンから送られた3点の彫刻を、白樺のメンバーたちは保管を兼ねて、持ち回りで手元に置いていたようです。柳さんも新婚時代を送った千葉県我孫子の自宅で作品を預かっていました。それを知った白樺の愛読者で、京城(現在のソウル)で教師をしていた浅川伯教という人が、ロダンの彫刻を見に訪ねてきます。彼が手土産に持参したのが、朝鮮時代に作られた高さ12センチほどの小ぶりな白磁の壺でした。

柳さんはその美しさに大変に心を打たれます。それまで柳さんにとって美の対象は、ゴッホやセザンヌやロダンといった、天才と称される西洋の芸術家たちが手がけた美術作品でした。それに対して、目の前の朝鮮のやきものは、無名の職人によって、しかも鑑賞目的ではなく実用の品として作られたもの。柳さんはそこに、芸術家の美術品に勝るとも劣らない美しさを見出して驚きます。美に対する意識が根底から覆されるような体験だったことでしょう。以来、柳さんの関心は「西洋の美術」から「東洋の工芸」へ、なかでも職人が生みだす手仕事の世界へと移っていきます。

リーチと交流を深め、白樺の活動を通してロダンから彫刻を受けとり、そして朝鮮陶磁器との出会いがもたらされた。ここまででも十分にドラマに満ちているのですが、むしろ始まりはこれからなんですね。そして、こうした出会いの連続は、単に柳さんの運が良かった、という話ではないと思います。絶えず美しさに関心を向け、美とは何なのかを求め続けていた。柳さん自身に準備があったからこそ、さまざまな人やものとの出会いが、見事に一本の線につながっていったのでしょう。

旅のはじまり

木喰仏を訪ねゆく旅で、手仕事に出会う

朝鮮陶磁器と出会い、民族の固有の文化やその美に心を打たれた柳さんは、それを生みだした朝鮮の人々にも敬愛の心を寄せます。朝鮮はその当時、日本の植民地でした。朝鮮民族を日本臣民として組み入れ、朝鮮文化を日本文化に塗り替えようとする日本政府の同化政策を柳さんは批判します。朝鮮陶磁器のおかげで美に対する目をひらかれた、その"恩義"を果たすために、自分は固有の文化を守る側の人間になりたいと明言。文化を通じて国と国を結びつけ、民族同士をつなげたいと願い、そして実際に行動します。朝鮮民族美術館を京城に設立するなど、朝鮮民族の芸術文化を紹介し保存する活動を精力的に進めていきました。

1925年、日向国分寺での木喰仏調査(日本民藝館提供)

そんなある日、朝鮮陶磁器を蒐集する人のお宅を山梨県甲府に訪ねていった柳さん。その敷地で目にした素朴な仏像に心を奪われます。それは山梨県出身の木喰上人(もくじきしょうにん 1718-1810)という僧侶が作った木彫仏でした。木喰仏(もくじきぶつ)と呼ばれ、庶民にとって信仰の対象であると同時に、子供たちは川に浮かべて浮き輪がわりに遊んだという話も伝わるほど、暮らしに溶け込む民間仏です。やさしい微笑みをたたえた木喰仏に心底魅力された柳さんは、木喰上人の足跡をたどって全国を回り、2年ほどをかけて300点以上の木喰仏を発見。長らく歴史の中で忘れ去られていた木喰仏に再び光を当てたのです。

この調査の旅が、手仕事の美を発見する旅にもなりました。木喰仏の多くは、集落の小さなお堂などにあり、そうした場所にはその地域ならではの伝統的な手仕事が息づいていたのです。土地の風土や自然に根ざした人々の暮らしの中から、湧き出るように生まれてきた文化や日用の品々。その中に、本当の美しさがあるのではないかと、柳さんは旅を通して気づきます。これが民藝の概念につながっていきました。

民藝運動の3つの柱

掲げた理想や夢を、現実に変えていく

民藝は、民衆的工藝を略した造語です。京都の朝市で商人たちが安物の品を指して呼んでいた「下手物(げてもの)」に代わる言葉として、柳さんが、盟友であり陶芸家の濱田庄司さん、河井寛次郎さんとともにつくりました。そして3人は、民衆の暮らしから生まれた手仕事の文化を守り育てる活動に注力していきます。当時の日本は、急激な近代化と西洋化で世の中が大きく変わり、手仕事が機械に取って代わられていた時代。柳さんたちは「それでいいのか」と疑問を呈します。そして「手仕事の復権」とあわせて、「美の生活化」、つまり美と生活をつなげることを提唱。民藝運動が本格的に始まったのです。

1953年、西館書斎での柳宗悦(日本民藝館提供)

民藝運動を進める手段として、柳さんたちは3つの柱を立てます。1つは、美術館をつくること。「美とは何か」を指し示す灯台のような拠り所ですね。これがのちに日本民藝館の開設につながります。2つめは、雑誌を出すこと。「美とは何か」を発信するメディアとして、雑誌「工藝」を創刊。これは雑誌「民藝」となり、現在も続いています。そして3つめが、民藝店を開くこと。柳さんたちが「これはいいな」と思う民藝を国内外から集め、都会の店舗でディスプレイして販売し、利益を生産者に還元する、そうした流通の仕組みをつくりました。今でいうセレクトショップですね。これが約100年前なのですから、先見性に満ちた発想力と実行力に感嘆します。

民藝という新しい価値観をつくり、こうありたい、こうあってほしいという理想や夢を掲げた。そして、それをどう現実化するか、どう社会的につなげていくかを常に考えて、プロデューサーとしての手腕を発揮したところに、柳さんのすごさがあります。思想家であると同時に実践家であり、「夢を現実にする力にあふれた人」という印象を私は受けます。1人の人生とはとても思えないほど、成し遂げた功績は大きくて多い。人生の山場が1つではなく、いくつも連なって山脈をかたちづくっている、そんな生涯だと感じます。

(後編に続く)

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日本民藝館

<本館>

開館時間

10:00~17:00(最終入館は16:30まで)

休館日

毎週月曜日(ただし祝日の場合は開館し翌日休館)
年末年始、陳列替え等に伴う臨時休館あり

<西館 旧柳宗悦邸>

開館日

第2・3水曜日、第2・3土曜日
年末年始、陳列替え等に伴う臨時休館あり

開館時間

10:00~16:30(最終入館は16:00まで)

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