INTERVIEW

アーティスト/株式会社C.Y.A 代表取締役 古賀 賢治

芸術家、グラフィックデザイナー、アートディレクター。日本人で初めて、作品がニューヨーク国連本部のパーマネント・コレクションに選出。1994年、国連記念切手「国際防災の10年」のデザインを手がける。2014年よりジャクソン・ファミリー財団ジャパン代表。

史実を記録にとどめる、
横のつながりを生む――
より良い世界のために
アートにできることとは

ニューヨークや日本を拠点に40年以上にわたりアーティストとして一線で活動する古賀賢治氏。手がけた作品がニューヨーク国連本部に永久保存されるなど、国際的に高い評価を得ています。そのアートワークの根源にあるものとは。アートの力とは。古賀氏にお話を聞きました。

アートとの出会い

ウォーホルに突き動かされて、NYに

1974年に20代前半で単身ニューヨークに渡ったのが、僕のアーティストとしての出発点です。アートへの関心の芽生えは子供の頃。長崎県諫早市で6人きょうだいの末っ子として育ち、6歳上の兄が描く油絵に興味を引かれて中学から美術部に入りました。兄の影響でジャズも聴くようになり、ジャズやモダンアートの本場であるニューヨークは憧れでしたね。

高校生になると全国各地で学園闘争が激しさを増し、地元長崎では佐世保米軍基地への原子力空母エンタープライズ入港反対闘争が起こりました。当時の日本社会に渦巻いていたのは、カルチャーに対するサブカルチャーの闘いです。現代の「サブカル」とはニュアンスがまったく異なり、当時のサブカルチャーというのは、政府やマスコミといった社会の支配層や支配的文化に対するアンチテーゼだった。つまり本来のサブカルチャーは思想であり、この時代の重要なキーワードですね。高校3年生だった1970年には大阪万博、そして陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で三島割腹事件があった。歴史に残る時代の転換期で、僕自身も大きな影響を受けました。

ニューヨークに行こうと決めたのは1冊の雑誌がきっかけです。読んでいた「美術手帖」に、アンディ・ウォーホルがニューヨーク・タイムズスクエアに構えるファクトリーの住所が載っていて、それを見た瞬間にどうしても行ってみたくなった。現地に到着した日のことは今も覚えていて、すでに日は暮れて暗く、しかも極寒の2月。当時、ポップアートの旗手としてニューヨークを象徴する存在だった人に、アポなしで訪ねたアジアの若造が簡単に会えるわけもなく、それでも何とか頼み込んで入れてもらいました。長崎のジャズ喫茶で米軍兵と仲良くなって身につけたブロークンイングリッシュを駆使してね。

モダンジャズの名ドラマー、
マックス・ローチ邸にて

その旅を起点として、以降、ニューヨークと日本を行き来しながらアーティスト活動を本格化しました。数年後に、国連を代表する女性ジャーナリストのグローリア・S・キンスさんと出会ったことが一つの転機に。ニューヨーク社交界の重鎮でもあるグローリアを介して、私自身もニューヨークで人脈が広がっていきました。

国連の永久保存作品に

ストックホルムの片隅で
目にした古切手が
もたらしたもの

1993年に僕の作品「Symbol of Peace(平和の象徴)」がニューヨーク国連本部に永久保存されました。世界各国の使用済み切手をコラージュしたこの作品は、旅先での偶然の出会いから生まれたものです。当時1カ月ほど滞在していたストックホルムで街中の文房具店に入った際に、土産物として売られていた消印付きのユーズドスタンプが目にとまりました。ルーマニアの切手が多くあり、紙質も印刷も決しても良くないけれど何だか心ひかれる。聞けば、店主はチャウシェスク独裁体制下にあったルーマニアからの避難民で、故郷に残した家族との唯一の連絡方法が手紙なのだと。切手という小さな紙片が秘める、人と人をつなぐ力に気づき、作品のインスピレーションがわきました。

僕自身の手で切手を1枚1枚貼り合わせたこの作品上に国境はなく、西も東もありません。人から人へ喜怒哀楽の思いを運ぶ切手。願わくは、そこから「怒」」と「哀」を少しでも減らせる世の中でありたい。そんな願いを込めました。決して難しいものじゃないんです。

この作品を引っ提げてニューヨークで開催した個展には、当時のブトロス=ガリ国連事務総長やゴア米国副大統領も足を運んでくださり、その場で「パーマネント・コレクションにしたい」と提案を受けました。その後、94年には国連「国際防災の10年」を記念する切手の国際デザインコンペに参加し優勝。翌95年にニューヨーク国連本部およびジュネーヴ、ウィーンの国連事務局から20世紀最後の国連記念切手として発行されました。

1994年 NY国連本部にて。左よりNY Art Directors Club CEO ミルトン・グレーサー、
国連郵便管理局局長アンソニー・フォーエーカー、古賀氏

アートワークの根源にあるもの

反戦平和への思いを胸に、
アートにできることを探求

僕が90年代初めに手がけた「55億分の1000」という作品があります。僕の友人知人、そのまた知人など1000人分の指紋と、名前、生年月日が記してあります。当時の世界人口55億人の中で、少なくともここに名前のある1000人は、市民戦争や民族紛争などあらゆる戦争に加担することを心から拒むという血判状のような意味合いを込めた作品です。

「Symbol of Peace」も「55億分の1000」も、通底するテーマは反戦平和であり、僕自身が長崎出身であることが関係しています。そもそもニューヨーク国連本部に最初に足を運んだきっかけも、図書館に収蔵されている原子爆弾関連の資料を読みたかったから。世界の仕組みや国際政治の歴史を知りたいという探究心が強くあり、情報の宝庫であるニューヨークで見聞きしたこと、学んだことのすべてが、僕の場合はアート制作につながりました。

平和への思いが常に根源にある僕にとって、今回のロシアのウクライナに対する蛮行は許しがたいものです。困難な状況下で活動にあたる国連職員を支援したいとの思いから、かつて90年代に国連難民高等弁務官事務所のバックアップを目的に設立したNGO団体「日米アースアクセス委員会」をこのほど再始動させました。当時のメンバーであるグローリアと、新たな仲間も迎えて、アートの力で何か国連活動をサポートできるようなイベントや取り組みを進めていく考えです。

ほかにも僕自身の最近の関心としては、AI(人工知能)を活用したアートにもすごく魅力を感じるし、ブロックチェーン技術によるアート作品のNFT化にも積極的に取り組んでいきたい。そうした新しいテクノロジーと組み合わさることで、アートの可能性がどう広がっていくのかも楽しみです。

史実を記録する

「何が起きたのか」を
伝える役割の一端を
担いたい

ロシアのウクライナ侵攻が始まった当初は日本国内でも連日大きく報道されましたが、状況が長引くなかで徐々にほかのニュースに埋もれ、人々は日常に戻っていきました。振り返ると21世紀になったときも、あるいは平成から令和に変わったときも同様で、どれだけ大きな出来事でも、すぐに歴史の1ページとして過去のものになる。これは人間の精神性として自然なことです。それでも、時代がめまぐるしく変化し人々の関心が過ぎ去っても、「何が起きたか」という事実は変わらない。この史実を記録する役割の一端を、アーティストとして作品をつくることで担いたいという思いがあります。

インターネットを介して世界中の人と容易につながることができる現代にあっても、アート制作というのは、突き詰めればきわめて個人的な営みです。自分と対話し、感覚や感性を研ぎ澄ませて、ほかの誰とも違うユニークでカッティングエッジなものを追い求めていく。そうした孤独で寡黙な時間が必要です。それに加えて、文化や考えの異なる人とより深く議論をするためにも言語力は大事。長年ニューヨークで活動してきた僕自身も「英語をもっと勉強しておけば!」といまだに思うほど。若い世代のクリエイターに経験から何か伝えるならば、世界とのコミュニケーションのツールとして英語はぜひ身につけた方がいい。これに尽きますね。

紛争以外にも、世界には自然環境、水、食糧、資源などの課題が山積していて、この先も深刻度はさらに増すはずです。そうした課題に対して、アートは何ができるのか――。率直に言ってしまえば、解決への直接的な力にはなれないでしょう。仮に何か変化を起こせても、それは一過性にすぎません。しかし一方で、アートを介して生まれ得る横のつながりや、人々の連帯には大きな意味がある。特に今はSNSを通じて何万人単位でメッセージが拡散する時代であり、これこそが情報化社会の真価でしょう。か細いものであってもアーティストにしか発揮できないパワーがある。そう信じてつくりたいものをこれからもつくる、それだけです。